会社のあゆみ

オリエンタルコンサルタンツの60年のあゆみ

1957年に創業してから今年で60年。その間には事業の変遷や会社存続の危機など、
現在のOCを形作る様々な出来事がありました。
ここでは10年ごとに、社会に合わせて変化を続けながらも着実に歩んできた道のりをご紹介。
これまでOCのために情熱を傾けてきた人々の“ドラマ”を見ていきたいと思います。

創生期

設立当初の東京事務所(文京区表町二十七の伝通院ビル)

PC構造物設計のパイオニアとして誕生。
総合コンサルタント企業へ向けて急成長を遂げる。

㈱オリエンタルコンサルタンツは、1957年12月24日、本社を千代田区丸の内に、事業所を文京区に置き、創立した。
同年5月には技術士法が制定され、公共事業はこれまでの官公庁等の技術者自身による設計から、欧米に倣いコンサルタント企業へ外注する動きが出始めていた。このことをいち早く感受した、当時のオリエンタルコンクリート㈱(=OKK)の専務であった木村又左衛門は、コンサルタント企業の分社独立を発案し、OKKの子会社として我が社を創立した。初代社長は、当人が就任した。創立時、社員数は29人、初年度の売上高は100万円からのスタートであった。
我が社は、先端技術であるPC構造物の設計技術を特性にして、PC・RC構造物設計の専門コンサルタント会社としてスタートした。創立初年度は、準備期間で一部受託業務はあったが、2期目直前に大阪事務所を開設し、実質的には同年末に日本道路公団滋賀建設所から名神高速道路瀬田川橋梁取付高架橋及び擁壁や横断ボックスカルバートの設計を受注し、本格的に業務を開始した。
その後、東京オリンピックに向け公共事業が急ピッチで進む中、我が社の業務量も急増した。技術者たちは、若さとパイオニア精神で、関係者と一丸となって仕事にあたった。その成果は社会から高い信頼を得、その後の発展の強い基盤を築いた。
一方で当初の我が社は、中立・独立的立場の保持の点で問題を抱えていた。親会社であるOKKは我が社との支配関係を保持したいところだが、当時の実質的責任者であった、木村公道常務がOKKと粘り強く交渉した。独立の第一歩として、社員出向制度を1961年に廃止し、社員は我が社独自で採用することにした。このことは、創立間もない我が社にとって経営的支援が得られなくなる厳しい決断であった。しかし、それを含めて真に独立したコンサルタント企業への道を歩むことを決断した。
1960年に2代目社長として岩沢忠恭が就任し、1962年4月には本社を渋谷へ移転した。1966年には名古屋、1967年には福岡に出張所を開設し、全国的な企業活動を展開できる体制を整えた。その当時、第10期(1966年)には、社員数143人、売上高は2億8000万円となった。また、創業当初は構造物設計を主体にしていたが、鋼構造はもちろんのこと、道路設計、施工管理業務などへと業務領域を拡大し、順次総合的な業務が可能な体制を確立した。我が社は、PC・RC設計専門から総合コンサルタント企業へと、新たな一歩を踏み出したのである。

成長期

建設中の東京港トンネル

創立15周年を機に会社として初めて経営計画を策定。
技術提供、技能提供の調和がとれたコンサルタント企業を目指す。

第3代社長佐藤寛三の指揮の下、高度成長期にさしかかった我が社の業容は、道路や架橋の計画のみならず、大阪万国博の関連事業や山岳トンネル、団地造成計画にまで拡大した。
1971年には環境庁が発足し、騒音や日照、景観、低周波空気振動といった環境関連の業務を受注するようになった。また、生活レベルの向上に伴って住み良い生活環境が求められるようになり、都市計画業務も増大した。
第4代社長に有江義晴が就任して迎えた1973年、現在でいえば中期経営計画に当たる「我が社の将来目標」を定め、コンサルタントとして目指すべき方向を示した。ビジョンを策定するのは創業以来のことであった。この中では、コンサルタント像を二つに分けて定義している。一つは、設計方法等がある程度定まったものに対して、技術者が実施設計をし納品する「技能提供型コンサルタント」。もう一つは、保有している高度な技術や情報を駆使し、発注者が必要とする調査や計画などを提供する「技術提供型コンサルタント」である。そして、これらのコンサルタント像を踏まえ、我が社の将来目標と経営理念を以下のように掲げた。『我社は建設コンサルタントとして、優れた技術、情報および設備等をもち、これらを提供することによって、社会に貢献するとともに、全社員の生活の安定と精神的充足を図りつつ、常に着実な成長発展を続ける企業となることを目標とする。この目標を達成するため、全社員の積極的な参加意識のもとに英知を結集し、誠実と信頼をモットーに、技術提供型のコンサルタントとして経営することを基本理念とする。このために必要な、経営基盤の充実、事業規模の拡大、長期的視野にたった利益の適正配分、人材の養成、設備投資および社員に対しての環境造り等の計画を樹立し実行にうつすものとする。』。
一方、業容としては国内だけにとどまらず、国際部門を設置し、海外進出へも積極的に挑戦した。順調に成長していくと思われた矢先に起きた石油ショックによる日本経済の停滞は、我が社においても大きな影響を及ぼした。第17期の受注量が伸び悩み、第18期にはついに前期より減少した。そこで1975年、受注対策本部を設置し、技術員7名をセールスエンジニアとして営業部に配置転換することで営業を強化した。さらに営業本部や仙台出張所を開設するなど改革を行い、適切な経営施策を打ち出した。これらの効果が徐々に現れ、第20期(1976年)の受注は順調に増加した。この時、社員数は224人、売上高は14億8100万円にまで達していた。

安定成長期

明石海峡大橋(本州四国連絡橋)

外部環境に左右されながらも、常に時代の要請に応じて、
迅速に企業体質を改善することで、成長を遂げる。

1980年初頭、国家の緊縮財政方針のもと公共事業費は抑制され、さらに入札談合問題なども顕在化し、建設コンサルタント業界は厳しい外部環境の中にあった。我が社においても、業績面で苦しい局面を迎え、第25期(1981年)には前期に比べて業績が低迷することになった。また、時代の流れの中で指名業者数は従来の約2倍にまで膨れ上がり、競争も激化した。社内では、営業部員のみならず全社員で入札対応等を行うなど、全社一丸でこの厳しい状況に向かっていった。
細井昌晴が第5代社長に就任し、1983年には、「我が社の将来目標(5年毎に定期的見直し)」の見直しが行われた。その中ではコンサルタント業を「知識提供型の技術サービス業として、今後大きな成長が期待される第三次産業の中でも特に大きく発展し続ける業種」と位置づけ、「発注者の意図を上回るような業務処理が行えるコンサルタントとして経営する」ことを基本理念とした。また、技術の保有と情報提供のために、業務完成高の5%を研究開発投資に活用する明確な方針を定めた。さらに、時代の要請に応じた企業体質を構築するため、社内手続きの合理化や各種制度の見直し、営業・業務・人事情報等のシステム開発を即座に行い、経営改善を図った。
1984年頃には、日本経済も内需拡大方針へ転換し、公共事業費を柱とした経済再建が行われた。こうした外部環境もあり、我が社の受注量も順調に拡大し、また、海外業務もこの頃より本格稼働し、台湾の沈埋トンネルやタイへの専門家派遣など一定の成果を上げた。 第30期(1986年)には第6代社長に清野茂次が就任し、我が社は創立30周年を迎え、社員数は278人、売上高は42億3500万円となった。創立30周年記念式典は、にっぽん丸船上にて開催した。

高度成長期

渋滞緩和のための交通現象調査(首都高速道路)

OCを中核としたグループ企業化により、
“社会の公器”として上場に向けての準備を着々と進める。

1990年代に入るとバブル経済が崩壊し、経済成長が停滞し、公共事業費も増加基調に陰りが見え始めた。さらには建設市場の外国企業への開放や、入札・契約における公平性・透明性が一層求められるようになった。このように、この時期は建設コンサルタントを取り巻く環境が大きく変わった、激動の時代であったが、我が社は第6代社長清野茂次の指揮の下、着実に成果を上げ、成長を遂げた。
我が社では1992年に、「ACT-21」と呼ばれる将来目標を策定した。ACTは、『向上心に燃え(Ambitious)、創造的な(Creative)、技術者集団(Technological group)』の意であり、「全員が21世紀に向かって経営していく」という決意を言葉にしたものであった。経営理念や建設コンサルタントとしての将来を再定義し、業務活動を続ける上での行動規範となるオリエンタルスピリッツとして“プロ意識を持って行動する”“より高い目標にチャレンジする”“魅力あふれる個性を磨く”“相手の人格を尊重し本音で議論する”“仕事を楽しむ”を新たに策定した。また、オリエンタルコンサルタンツを核としたグループ企業の組織化が始まり、1988年には㈱オリエスセンターを、1989年には㈱オリエス総合研究所と㈱オリエス西日本を関連会社として設立し、グループシナジーの発揮を目指した。さらに、東京事業所を開設したり、広島支所を支社として昇格するなど、徐々に組織を拡充していった。
資本金と株主について、本格的な検討を行ったのもこの時期であった。「コンサルタント会社は社員株主を主体にすべきである」という考えのもと社員持株会を設置した。徐々に親会社の株式保有率を減らし、社員株主による保有を増加させる努力を行った。このような準備を行うことで、上場への布石を打ったのであった。
順調に会社が成長していた矢先の1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生した。我が社は震災復興企画本部を設置し、構造物の点検や道路の交通確保のために関係官庁に人材を派遣することで、建設コンサルタントとしての役割を果たした。この震災の教訓を受けて全国で補強工事が始められ、我が社も積極的に参画した。この震災によって日本の“安全神話”が崩壊し、高度過密都市における都市と道路のあり方、そしてコンサルタントとしての姿勢を考え直すきっかけとなった。
その後、我が社は第40期(1996年)を迎え、社員数は628人、売上高は142億8900万円にのぼった。

停滞期

タイ国第2バンコク国際空港建設事業PMC業務

JASDAQ上場。我が社を基幹企業とした純粋持株会社を設立。 常に、時代をリードする建設コンサルタント企業へ。

2000年9月、ついにJASDAQ上場を果たし、社会の公器として開かれた会社となった。社会的知名度の向上や経営基盤の充実、採用力の強化などを目的とした、我が社にとっての20世紀最大の重要な施策であった。 この当時は、景気低迷や混沌とした将来への不安、物の豊かさから質の豊かさへの意識変化など、社会情勢の大きな転換期であった。発注者側の技術者不足も相まって、コンサルタント業務はますます複雑化し、それまで一般的だった、価格で判断する「競争入札方式」では期待した結果が得られなくなってきた。そんな中、質の向上を実現するために注目されたのが、価格ではなく技術提案力を評価する「プロポーザル方式」であった。我が社でも発注方法の変化に合わせ、業務実績検索や手持ち業務情報等の把握ができる「プロポーザル管理システム」を即座に構築するなど、技術競争に対する早期対応で受注拡大を図った。 それ以外にも、会社のさらなる拡大・強化のため、1999年には北陸地域の営業補強と下水道部門の強化を狙って㈱中央設計技術研究所を、2001年には山陰地域の営業強化とGPSなどの航空測量分野への進出を目的に㈱ワールドをグループ会社の一員として迎えた。これにより、保有していなかった技術とこれまで培ってきた建設コンサルタントとしてのノウハウを融合させ、複雑化・多様化した案件に対し、総合的な提案が可能となった。次に社内改革として、全社統一型の統合システムTMSを構築した。グループ各社が保有する新技術を中心に営業を行い、グループの相乗効果による受注拡大と、品質確保による競争力向上を図った。第45期(2001年)には、第7代社長に廣谷彰彦が就任した。 そして50年間の集大成として、㈱オリエンタルコンサルタンツを基幹企業とした純粋持株会社、㈱ACKグループを設立した。これは、企業価値の向上やグループの強化、事業拡大などが目的であった。㈱オリエンタルコンサルタンツは㈱ACKグループの基幹企業として、業務の中核を担う存在となり、行政支援や施設保全、交通関連、防災関連等、マネジメント分野のさらなる拡大を行い、グループ化のメリットを生かしてワンストップサービスに向けた新規事業の開拓を積極的に推し進めていった。この時、我が社の社員数は763人、売上高は153億4800万円であった。

変革期

陸前高田市震災復興

社員満足・顧客満足・社会貢献の3つの満足を追求することで、 真に魅力ある企業をめざし、未来に向けて進み続ける。

2007年、真に魅力ある企業への成長を目標に経営理念「I-Plan」策定した。真に魅力ある企業の実現を目指し、社員満足・顧客満足・社会貢献の3つの満足を追求することを経営の根幹に置いた。また、2008年には、課題のあった㈱パシフィックコンサルタンツインターナショナルの事業を引き受けた。それを契機に国内(SC事業本部)、海外(GC事業本部)の2大生産体制を確立し、国内・海外の両方でトップクラスの規模を誇る企業へと成長した。しかし、2008年のリーマンショック、2009年の道路特定財源の一般財源化や政権交代等の影響により、建設産業界は冬の時代に突入した。さらに、こうした状況は価格競争の激化を招き、我が社にとって非常に厳しい環境になった。 そのような環境の中、第53期(2009年)に、第8代社長野崎秀則が就任した。2011年には未曾有の大惨事となった東日本大震災が発生し、さらに翌2012年には笹子トンネル崩落事故が発生し、社会資本の安全性に対する国民の関心が急速に高まった。 我が社においては、震災直後の施設調査や三陸沿岸道路の整備、陸前高田市のまちづくりなど、復旧復興に対して多面的な貢献を果たしてきた。また、構造物の維持管理や点検業務の効率化などの技術開発を進め、さらなるインフラの安全性向上を目指しているところである。 一方、2011年に中期経営計画である「再生計画」を策定し、日本トップブランドの技術の確立を目指した。さらに、2012年には2020年ビジョン「社会インフラ創造企業~自らが社会を創造する担い手となる~」を掲げた。そして実現に向け、インフラ保全、防災、地方創生分野を中心に、事業・技術開発投資を行ってきた。その間、2013年に㈱オリエンタル群馬、2014年に㈱トータルフリートサービス、2016年に㈱玉川・オリエンタルコンサルタンツ総合研究所、㈱フーディア、㈱南アルプスゲートウェイといった地域子会社、専門子会社を次々に設立し、事業を拡大した。一方、海外事業における迅速な経営判断を行うための措置として、2014年にGC事業本部を㈱オリエンタルコンサルタンツグローバルとして分社・独立させた。2015年には中期経営計画「新成長計画」を策定し、さらなる成長スピードの加速化と技術競争力の強化を図ることとした。 そして2017年に創立60周年を迎え、我が社の経営の考え方を再構築し、OCウェイ(経営理念・経営姿勢・行動指針)を策定した。我が社は、次なる成長に向けて経営を進めているところである。

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